なんだかんだで

墓参りに新宿に行ってきました。思わぬ聖地巡礼になっちまった。
ビッグベン見たり、妖精の輪をくぐったり。某ボクシング漫画のモデルにもなった水炊き店の近くのお寺で墓参り。ちなみに法事の時にはここでご飯食べたりします。お盆なので人が限りなく少なかったですね。狐がついちゃう神社の近くを通ったり。中には入ってないけど。結構普段から新宿には行くけどああやってゲームをやった後だと何もかも新鮮に見えてよかったですね。
まあ、昨日ボロクソに書いたけどFORESTは単純に作品のクオリティだけ見れば本当に他の追随を許さないほどよくできてるゲームでした。ただ終わり方が悪意あるだけで。それが全てになってしまうほどなんだけど。
しかしクリアして数日たっても未だになんかモヤモヤしたものが消えない。流石にただ裏切られただけではここまでダメージにはならないはずで、別の何かがあるはず。
ということでちょこちょこやり返したりして理由を探ってみました。
まあ結果的にはさらにボロクソに書くことになったわけだけど。
まず、あのザ・ゲームの九月のエロシーンですかね。あそこで九月はメタ的な意志に気づくわけですが、メタ的な意志とされるものには、ライターとプレイヤー、FOREST的に言えば、語り手と聞き手のふたつがあるのです。しかし九月にとってはそれは『どっちも同じ』。どちらも自分を弄ぶ存在にすぎないわけで、区別する必要がない。なので九月は同一視して毒を吐くわけですが、プレイヤーは九月を(結果的に弄ぶことになろうとも)弄ぼうという意志がないのです。そういうゲームと思ってやってないのですから。なのに毒を吐かれる。それはライター側が仕掛けた回避不可能な罠です。
EDでも似たような構造が出てきます。別にプレイヤー側がわかりやすい悲劇やハッピーエンドを求めているとは限らないのに、外側の意志はこう考えているはずだ、と考えを押し付けて毒を吐いてきます。その外側の意志にはライターも含まれているから自虐でもあるんだ、とも一見とれるのですが、しかしそもそもライターがそういう『メタ的な存在を皮肉る物語』を書いているわけで。

『中のキャラクターが好き勝手にやったので話が破綻して困っている』語り手は、『中のキャラクターを”わざと”好き勝手に動かして話を破綻させている』ライターと、似せられてはいても同一ではないわけです。一方外側の聞き手をプレイヤーと同一視させるようにライターが話を作っている(ティッシュ云々のところなんて顕著)ので、プレイヤーはFORESTをする限り、どうしても外側の聞き手=プレイヤーという構造から逃れることができません。これは限りなくアンフェアなやり方です。結局のところ、FORESTという作品は、プレイヤーの望み、好み、意志、そういったものを勝手に作品内で推定、規定した挙句、それを皮肉るという構造になっているということになるのです。
また、語り手と聞き手が、物語というものに対して対等な立場ではありえないのに、それを同一のレベルであると作品内で扱うことによって、『物語の中の人物から見れば語り手も聞き手も同じ皮肉る対象』なんていう、よく考えればおかしい理屈が正しいように錯覚させられているというのもありますね。作品の根幹をなす、はじまりの物語。アケルとアマモリの会話。この中は、ふたりとも語り手であり、かつ聞き手であるから、二人は対等であるのは当然なんです。が、作中で、アケルは語り手、アマモリは聞き手、と二人に役割を振り分けることによって、その役割である語り手と聞き手もが対等であるという錯覚をプレイヤーに起こさせるようです。
実際のところ、語り手は物語を紡ぎ、それを支配します。聞き手はそれを変えることはできません。聞き手は、受け入れたくない物語を拒否するには『聞かないこと』しか選択肢がありません。しかしその『聞かないこと』というのも、物語の結末だけ受け入れたくないものにされてしまえばどうしようもないのです。回避不可能な罠です。なまじ結末まで魅力的であればあるほどこの罠は凶悪になるのです。本当に、FORESTという作品は、性が悪すぎる。
ふー。これだけ書けばかけられた呪いが解けるかな?